今年はとても忙しかった。
ブログに綴りたい事柄はいくつかあったけれど、そんなことをしてる暇がないくらい本業に忙殺されていた。
言っても在宅ワーカーだし一般的な社会人に比べればずいぶんと暇な方の人種だとは思うけど。
本業は今期とても調子が良かったし忙しいのは大変喜ばしいことなのだけれど、椅子に座り続けて食事も運動も満足にできないような暮らしはフラストレーションと脂肪が溜まる。
DV野郎にしあわせになってほしくない
先月の下旬でDV騒動のXデーから5年が経過したことになる。
わたしの暮らしはそのときとまったく違うものとなっているし、毎日充実している。
新しい恋人もできた。
もうそういう関係値の人間は私の人生に必要ない、と考えて4年間を過ごしていたのだけど、前に進んでみて彼との関係も1年以上経った。
でも、未だに恨みの炎が消えていない。
もちろん毎日考えたりすることは、とうの昔になくなった。夢にも出てこない。
けど週に2回くらいは思い出して「あーあいつ地獄に堕ちてないかな」と願ってしまう。
さらにたまに相手のSNSを(こっそりと足が付かないかたちで)監視してしまう。
もともと執念深い性格なのだけど、5年も経つのにいまだにこんなことをしている。
こんなに毎日忙しくしてるのに、週に数回もそんなことを考えている。
つくづく時間の無駄だ。
わたしのXアカウントを見れば、いまだにヤツとの出来事をいろいろなコンテンツきっかけに回想しては、思い出しムカつきすることに勤しんでいる。
この呪縛はいつ解けるんだろう。
彼かわたしが死ぬまで続いていないことを祈る。
DV野郎を好きだったことを否定しなくていいじゃん
よくX上でクソみたいなパートナーの愚痴を言っているポストに対して
「こんなクソ男を好きな時点で同レベル」
「ゴミを手放さない女も悪い」
「頭が悪いからこういうのと一緒にいるんだろう」
といったコメントを付けた引用ポストをよく見る。
DV経験について話すと
「なんでそんなやつと一緒にいたんだ」
なんてこともよく言われる。
こういう意見は決して間違ってないし至極当然だと思う。
でもDVやモラの最中にいると冷静な判断をすることはとっても難しくなる。
軽い洗脳状態に陥っていることも珍しくない。
そういう経験をしたからといって、起きた事象とそのときの気持ちは切り離して考えていいと思う。
あんな人間を好きだと思い込んでいて距離を取らなかった過去の自分に対して「馬鹿だった」と今はたしかに思う。
でも“人を好きだった気持ちを否定しなくてもいい”とも思う。
“自分なりに人を愛して、結果その気持ちは実りませんでした”
これでいいんじゃないかなと。
当時友人に言ってもらった言葉だけれど、今でも何度も思い出すし勇気付けられる。
もう十分すぎるくらい当時傷付いたし、そんなに自分を卑下する必要はないじゃん。
同じ失敗をしなければいい。
次はちゃんと自分のこころもからだも大事にしてくれるパートナーを見つけよう。
わたしはまぁいろんなストレスもありながらなんとか元気にやってるから。
人生は苦しいことが大半だけどたまにはしあわせであったりしていてほしい。
それは自分だけでなくまわりの人もみんな。
今年も乗り切って、なんとか生きた、十分だ。
そう考えながら仕事の合間に来たカフェでこれを書いてみました。
おわり。