妊娠中適応障害、産後うつ、1年経ってどんな心境か

現状をお知らせするよ ( 'ω' )

客観的事実として。

実際1年半くらい経っていますが、さて末っ子はどんな感じかというと。

 

身長体重もだいたい平均。

 

つみきを積むこともできるし、指差しもする。

 

「ありがとう」「ねこ」「ママ」「美味しい」といった単語も幼児語で出ている。

 

「ゴミ捨ててきて」「おもちゃないないしよ」などと声をかけるとゴミを捨ててきたり片付けをしてくれるから通じている感じもしっかりある。

 

この歳特有の人見知りはあるものの、よく笑うし真似も上手で成長にはなんら問題ないように見受けられる。本当にありがたい。

 

正直、私がこんな状態で子どもが障害とかあったらどうなっていたんだろうと思うから運がよかった。

 

 

母親の私は。

 

精神科に月1回の通院。

 

抗うつ薬は産後1年過ぎあたりから増えて今はレクサプロ10gを1錠、イフェクサー75㎎を2錠飲んでいる。

 

抗不安薬のロラゼパムもときどき飲む。

 

食事や睡眠はとれており、日常生活に大きな支障はない。

 

今こんな感じ。

産後1年経って。末っ子への思い

末っ子は、正直言ってめちゃくちゃかわいい。

 

ふわふわの髪の毛はすぐになでたくなるし いい匂いだ(だいぶ汗くさくなったけど)。

 

しっとりとしてお餅のような肌をムニムニムニムニとなでくりまわせるのも親の特権だし、

 

抱っこすると腕の中にすっぽり収まるこのサイズ感も今だけと思うと愛おしい。

 

1人目のときは初めての育児にとまどい可愛がりまくる余裕はなく、

 

2人目のときは年齢差から常に一番上の子と一緒だったから、姉が肩身の狭い思いをしないようにと気を遣ってこんなふうに接することができなかった。

 

「3人目産まなければ今ごろもっと自由だった」「3人いるとしんどい、疲れた」などと思うことはもちろんあるが、それは自分の心の問題であるので子への気持ちは揺らがない。

 

ここが少し理解しがたいと思われるかもしれないが、末っ子の存在と自分の心の葛藤はあくまで別物なのだ。

 

その葛藤の原因が末っ子だとしても、産んだのは私で選択したのも私だ。

 

私の中でこれだけは産む前からはっきりしていたから、虐待や子どもへのネガティブな感情が生まれるという不安は妊娠中一切なかった。

 

虐待に関しては恐らく精神科の先生や保健師さんも注視していたと思うのだけど(実際妊娠中にそれらしいことを聞かれたりした)、私の中では「そういうことではない」と断言できたことだから、思った以上に「かわいい」の気持ちが表に現れたのは自分でもよかったと思っている。

 

 

末っ子に対して負の感情は一切なく1年を過ごしたが、ある日思いがけない出来事が起こった。

 

上2人が学校へ行き、末っ子と私と2人で過ごしていたとき。

 

末っ子が椅子の上から派手めに落ちたのだ。

 

口の中を大きく噛んだようでティッシュが一気に染まるほどの血が出て、

普段出さない悲鳴のような声で末っ子が泣いた。

 

一瞬「病院・・・!」と思ったがよく見ると切れていたのは上唇で、腫れてはいるもののすぐに血は止まった。

 

安堵したのもつかの間、ふと私は思った。

 

 

「これでもし大怪我をして癒えない傷ができたら、もしくは死んでしまったら、

その責任は私にあるのだろうか。

 

夫や家族に、目を離した私が責められるようなことになるのだろうか。

 

責められなかったとしても、私は一生自分の責任だと思ってそれを悔いて背負って生きていくのだろうか。

 

…あんなに悩んで苦しんで産んだ子どもなのに。

 

あっけなく死んでしまうようなことがあったら 私はその事実にいっそう苦しめられるのか。」

 

 

子どもを産むということは、自分だけなら味わえなかった喜びや満ち足りた思いを共にできる未来があると同時に、

 

自分ひとりなら見ることのなかった絶望や惨劇を目の当たりにする可能性があるということなのだ。

 

 

大げさなことを突然考えたなと動揺する自分に自嘲しながらも不安を隠せず、妹にどうしよう( ;∀;)とLINEしてしまった。

 

こういうときすぐ連絡できる相手がいるというのは本当にありがたい。

 

いろいろ不安でこの記事を読んでる方にも、そういう人がいるといいのだけど。

 

1年という節目。新年度。フラッシュバック。

うつ病になると、「節目」とか「新年度」(環境が変わる)というのは特に心の影響が出やすい。

 

「あれから1年」と思うと、当時の心細かった自分を思い出して涙がでた

 

新年度からは上の子が小学校に入学し、夫も部署異動で仕事が忙しくなったため朝から寝かしつけまで自分一人という生活だった。

 

そして活動量が増え、自我が芽生えた1才児と上の子たちの面倒はやはり私には難しかった。

 

勉強や遊びを一緒にやってあげたくても、ごねる1才児を抱いたままではとてもできない。

 

どこかに行きたくても安全を担保できなくて連れていけない。

ていうか疲れるから行きたくない。

 

お昼寝や寝かしつけがうまくいかず、3人の寝る時間がどんどん遅くなる…。

 

 

たとえそれが「今だけ」だとしても。

 

「今できなくても仕方ない」ことだとしても。

 

私の性格上やっぱり落ち込むことが多かったし、途方にくれてフリーズしたり、

子どもに怒鳴るとかはあまりなくてイライラするというよりメソメソすることが多かった。

 

そうなるともう「結局誰も助けてくれないんだよなぁ…」という気持ちになった。

ていうか今もよくなる。

 

実際は親や夫がいるのだけど、母親という責任は私にあるわけで、だれも代わりになってはくれないという事実に一人向き合ってしまう。よくない。

 

 

 

このころ妊娠中の辛かったことを鮮明に思い出すことにも悩まされていた。

 

思い出すというよりはもう当時のことが本当にすぐそばにあって、フラッシュバックに近いような、とにかく泣いて泣いて胸が苦しくなった。

 

優しくしてくれたスタッフさんのことを思い出して、その気持ちが嬉しくて泣いたことも、今もふがいない自分に情けなくなることもあった。

 

 

先日そのことをやっと先生に相談できたのだけど、そのせいか薬が一気に倍になった。

 

出産から1年半、妊娠中から数えたらもう2年経とうとしているのに、私のトラウマは消えてくれそうになかった。

 

 

夫との関係。これからのこと。

妊娠中の記憶がいまだに私を苦しめていて、その原因を作ったのは夫である。

 

あのとき。

 

夫が「きみのことが好きだからきみとの子どもが欲しいんだよ」ということを強調してくれていたら結果は違っていたのになぁと思う。

 

いまだに夫はこの話になると、「長い目で見て、中絶したらきみの心が壊れる可能性があった。きみのことを思っての決断なんだよ」的なことを言ってきて、『それもう2度と言うなって言ったやろぉぉぉぉおおおおおお』と私はキレ散らかした。

 

その「おまえのためを思ってお父さんとお母さんはこの進路を進めたんだよ」的な発言が本当に嫌だったから、それはもう2度と言わないでって言ってあったのに意味不明だわ。

 

 

 

 

「だから私にはできないって最初から言ったじゃん!」

「なんで私は抗うつ薬を飲まなきゃいけない状況になってるんだ」

「なんで私は一人でやらなきゃいけないんだ」

「心細い。苦しい」

 

と思う度に、『妻の心や体より、妻の人生より、子どもを選んだ夫』を思い出しては自分の価値の無さに苛まれる。

 

産むというあなたの願いは果たしたから死んでもいいかね、と思う。

 

実際はそこまで貶められたわけではないんだけど、私を大切にする発言が少なかったのだ。

 

夫に対して「愛してほしい」という気持ちと見捨てられたような気持ちが混在していて、夫婦仲はいいんだか悪いんだか自分でもよくわからない。

 

生生しい話だが性生活はある。

 

言葉や態度にそんなにださない人だから、行為があれば私は必要なのかなとか愛されてるんだなとか思えるのだけど。この考え方っておかしいのかな。

 

 

 

でも薬が増えて思うのは、「相手は自分の思うようには愛してくれない」ということだった。

 

具体的に「こうして」「ああして」といっても、悪気はないようだが忘れる。

 

他人は変えられないんだよな。当たり前だけど。

 

死ぬほどつらかったつわりを経験させた時点で私に尽くして欲しいんだけど(女王様か)。

 

私は自分でこのトラウマを越えていかなきゃいけない、と思ったら、次にやれることは、カウンセリングを受けることだなと思うようになった。

 

今は病院の事情でカウンセリングが受けられない。

 

人に話せないこの内容を整理し、緊張して疲弊した心をほぐすにはプロに聞いてもらった方がいい。

 

というわけで、1年半たった私は次回転院のための紹介状をお願いする予定です。

 

好転してほしい

Share:

人気記事

最新記事

サイト内検索

検索
カテゴリー
アーカイブ

こんな記事も読まれています