タナカさんちと、うち。
同じ町内で、うちの4軒先に住むタナカさん。
いつも笑顔で面倒見のいいおばさん、おじさん、娘さん2人、犬(当時はごんちゃん)の5人家族のおうちだ。
うちの母とおばさんは仲が良く、年齢的には10歳年上のおばさんは母や娘の私たちのことをとても可愛がってくれた。
料理上手でよく笑い、カラッとした性格のおばさんは、よくうちに料理を届けてくれていた。
天ぷら、お赤飯、おからの煮たやつ、漬物。
近所だからお皿に載ってることもあったが、豆腐の空きパックとか発砲スチロールの空いたのとかに載ってることもザラだった(ラップもされてない)。
「ていねいな暮らし」なんて言葉が流行る20年くらい前の話だけど、この適当な入れ物に絶品が入っていることがご馳走だと思っていたから、「ていねいな暮らし」を実践する人を当時私は鼻で笑っていた。
両親に似て面倒見がよく明るい娘さんたちは、私たちをテーマパークへ連れて行ってくれたり、プレゼントをくれたりした。
調味料がない、卵がない、と借りることもあたりまえの関係。
うちの三姉妹のひとりが体調を崩すと、母が病院に連れていく間、残りの2人はタナカさんちに預けられることもあった。
遠方から嫁いできて知り合いもおらず車も持っていなかった母にとって、その存在は本当に大きかったと思う。
タナカのおじさん。
タナカのおじさんは働きざかりだったから、実は私は子どものころのおじさんの記憶があまりない。
ときどき母に頼まれておすそわけを届けに行くとおじさんがいることがあった。
記憶はあいまいだがパンチパーマみたいな頭に色のついたメガネ、大工さんだったから作業着みたいなのを着ていて、ガラガラした声で「おう、ありがとな」と言われるとちょっぴり怖かった。
大人になってから知ったのだが、おじさんはもとは旧国鉄社員だった。
国鉄が民営化される際、管理職の立場だったおじさんは部下のクビをきるように言われた。
しかし「そんなことは自分にはできない」と言っておじさんは上司と対立し、国鉄を早期退職したのだ(カッコいい)。
建築の腕があったので自営業を始めたおじさんだったが、このときのことを恩に感じて慕ってくれる人や仕事をまわしくれた人が多くいたという。
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うちの町内は夏のお祭りの規模が大きい地域だ。
そこでおじさんは自営業という仕事柄 時間に融通がきくということや、もともとの面倒見の良さもあって町内会の活動に尽力していた。
昨年 町内会の仕事を初めてした夫が、お祭りの親玉みたいな人にタナカのおじさんの話をしたら「その人は俺の親分だ」と言っていたそうだから本当に重鎮だったのだろう。
コロナや人間関係の希薄さから近年なくなりつつある老人会の会長も長らくしていた。
みんなでカラオケに行ったり旅行に行ったりおしゃべりしたり。
コロナ禍には家でできるものをと、100均で買った色鉛筆と大人の塗り絵のセットを会員に配ったりしていた。
「前の塗り絵はやっちまったから、早く新しいのくれって急かされてンだ」。
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80歳近いおじさんとおばさんの元へは、老人会の会長をやめてもいろんな人が相談にやってきた。
来るのは、だいたい70歳くらいのおじいちゃんやおばあちゃんだ。
おじさんの挨拶はたいてい「おう、生きとるか」だった。
年をとると会話が健康や保険の話になるとアラフォーの人が言っていたが、アラ傘寿の人となると生存確認から会話がはじまるのだ。
「いや~この前入院しとったもんだから」
とこちらも負けてはいない。
「あいつぁ死んじゃってるから」とかもうレベチな話をしだして、60代くらいの?息子の相談なんかがはじまって、台所からおばさんも参戦してきてジジイとババアがジジイとババアの文句を言いだすから聞いてるこっちはめちゃくちゃ面白い。
そうやってベッドに座りながらタナカのおじさんたちはジジイとババアの世話をするのだった。
大人になって再びタナカ家にお世話になることに。
ちょうどコロナが始まった冬、私は実家近くに新居をかまえた。
久しぶりに会ったタナカのおばさんは76歳。小さくなっていたが変わらずいつも笑顔だった。
おばさんと同い年のおじさんは記憶よりずっと丸くなっていた。
闘病生活をしており、基本ベッドの上で過ごして日中はテレビを見る生活。
家にはアパレルで働く娘さんと、タナカのおばさんのことが大好きなダックスフンドのくーちゃんが同居していた。
そのときうちは上の子が3歳、下の子が1歳だったから実家の祖父母やタナカ家に用もなく遊びにいった。
子どもたちにとって、タナカ家はもの珍しい家だった。
きちんと整理されいつも綺麗な家だったが、造りが古く、モノもめちゃくちゃ多かったから、なんでも遊びに変えられた。
おじさんが座っていても網戸が開けやすいようにとベッドに置かれた「孫の手」は、なんだかよくわからないが子どもたちに人気だった。
おじさんのベッドのまわりにあるちょうど良いサイズ感の懐中電灯、やたら重くてデカい虫眼鏡、カパッとあけるタイプの携帯電話(スワイプできない!)。
子どもたちがそれらの取り合いをすると、なぜかどこからか同じようなものをおじさんかおばさんが探してきてくれた。
なぜ2個もあるんだ。
冷房や暖房を嫌うおじさんの部屋は暑いし寒いしだったけれど、子どもたちはおかまいなしに走り回った。
真夏に汗だくで探検ごっこをする姉弟を「あいつら見てるだけで暑苦しいな」とおじさんが呆れ顔だったこともあった。
おじさんの新たな一面。
おじさんと私は、挨拶をする程度しか会話をしたことがなかった。
けれど子どもたちの厚かましさに乗じてタナカ家に入り浸るようになって気付いたことがあった。
なんとおじさんは、犬より猫派だったのだ。
「俺は猫のが好きなんだけど、お母さんが許してくれないから我慢してるの」。
そういうおじさんのスリッパは猫柄だった。
ベッドの傍らのカレンダーも猫、マスクも猫。
ごんちゃんもくーちゃんもおばさんの嗜好だったのか。
おじさん、おばさんに弱かったのね、知らなかった。
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ゴミ出しやちょっとした散歩くらいしか出歩かないおじさんだったが、おしゃれさんで毎日違う帽子をかぶっていた。
作業着のイメージだったから、部屋に並ぶ帽子に驚いた。
あと、頭のサイズが私と同じだった(私そんなに頭大きくないのだけど)。
冬はおばさんお手製の毛糸の帽子もかぶっていた。
ある日おじさんが「これ見て」と着ていたトレーナーの胸をはって見せてきた。
クマのプーさんのトレーナーだった。ナニそれカワイイ。
「え!可愛い!めっちゃ似合う!!」
と言うと笑っていた。
クリスマスにあたたかい靴下をおばさんとおそろいで贈ったら、大笑いするおばさんの横で「履くからタグ切って」とその場で履いてくれて「アリガト。」と言うと布団にもぐりこんだ。
うちの父なんか恥ずかしいと思うと変な遠慮を見せちゃうような人だから、こうやって素直に反応して喜んでくれる男性というのは意外で、素敵に思えた。
タナカのおじさんとおばさん。
寝てテレビばかり見ているおじさんをおばさんは心配していた。
「ゴロゴロしてないでちっとは動きなさい!」とおばさんが小言を言うと、「知らん!!」と布団を着なおしてそっぽを向くおじさん。
いつもこんな調子だったけど、おばさんはいつもおじさんの食事に気を配り、手編みの帽子や手袋を作っていた。
ある日おばさんに楽天アプリを入れたいと言われて私が協力していたときのこと。
「おばさんのアドレス教えてー」と私が言うと、
『“ケンちゃんヨネちゃん” … なんだっけ』とおばさん。
「・・・」
「え!ケンちゃんヨネちゃんっておじさんとおばさんのこと?!」
『そうだよぉお!なんだっけな、ちょっと待って』
…なんとアドレス名が夫婦のあだ名だったのだ。
付き合いたての高校生みたいなことをしている老夫婦に思わず笑ってしまったが、おばさんはカラカラといつも通り笑っていた。
お互いのことを思いあって、それを隠さない姿勢がまぶしかった。
タナカのおじさんと私。
子どもたちがタナカ家を探検したり遊びまわっている間、私はたいていおじさんとテレビを見ていた。
おじさんはスポーツが好きでよく観ていて、「オリンピック見たくて3時に起きた」とか早起きや夜更かしはザラだった。
「錦織、あいつはダメだ」と言うおじさんに「あ~嫁がダメらしいよ」とかどうでもいい芸能ネタを話すこともあったし、「今のすごくない!?」と2人で盛り上がることもあった。
あるときおじさんが「おい、昨日新聞見てたらな、子どもの“なに、なに”、“なんで、なんで”は答えてあげなきゃダメなんだってな。」と育児の話をふってきた。
2歳になる息子がちょうどそのときだったのだ。
「“うん”、でもなんでもいいから答えてあげることが大事なんだって書いてあったぞ」。
…あの色入りメガネのおじさんと、自分の子どもの子育ての話をしてるなんて、30年前の私が聞いても信じないだろう。
子どもが好きなおじさんは、勝手に入り浸る赤の他人の子どものために、ピタゴラスイッチを作ってくれるような人だった。
本職の腕をいかした、本格的なやつだ。
ピタゴラスイッチが大好きな娘は大喜びで、レールが好きな息子はもくもくと車を走らせた。
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タナカ家の人は押し付けることは決してしなかった。
子どもが来ても一緒に遊ぶわけではない。
でも、下の子が上りにくそうにしていた玄関に、ある日何も言わずにブロックの段差が増やされていた。
今じゃ珍しい電気からぶら下がる紐に、「ふわふわの握りこぶしくらいの毛玉」がある日付けられていて、
『2人が好きそうと思って100均で買った』と教えてくれた。
ある日来客があったとき、おじさんがぽつりと、「あれ、うちの孫。」とうちの子たちを見て言った。
あれは私が、嬉しかった。
上の子が小学校にあがり交流は減ったが、タナカ家の誕生日の人がいる日はいつもケーキを持って昼間に参上して、みんなでハッピーバースデーを歌っておやつにするのが習慣になった。
あと10日。
82歳の誕生日まであと10日のところで、おじさんは亡くなった。
亡くなる数日前に娘さんが泣いているのをみた。
「おじさんをね、また入院させてきたの。」
退院したと思い込んでいた私が驚くと、
「もう動けなくなっていて、ご飯もあんまり食べられなくて」、と。
でも退院の日に、おじさんの大好物のケンタッキーを食べたって。
そのとき、家族でどういうやり取りがあったかはわからない。
いつもいろいろ話してくれる娘さんがそれ以上話さなかった。
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それから数日後、おじさんが亡くなったという回覧板がまわってきた。
今まで何度も訃報の回覧板は回してきたけど、かつてないほど焦りのある「至急です!」という言葉を区長さんから聞いた。
お通夜もお葬式も、親族かなってくらい私は泣いた。
棺には、帽子や愛用の作業着、くーちゃんの写真、ケンタッキーのフライドチキンが入っていた。
その日の夜ご飯は、わが家もケンタッキーにした。
滅多に買わないのに、たまたま5本パックで40%オフの日だった。
旅の途中でおじさんも食べているのだろうか。